書くことを書く

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文章を書くことが好きだなあと思う。

 

あたまの中身を外に出して眺めるのがおもしろい。

かたちの無いものに、かたちを与えるのが楽しい。

他者の頭の中の、そのひとの人生の断片を材料にして、

ぼくの言葉にイメージが与えられるのが奇妙。

ぼくはこういうイメージで言ってるのだけど、

あなたはそんなふうにイメージするのですね、

というのがかなり好きです。

 

意味が通るか通らないか、

文法に則しているか則していないか、

そもそもその言葉を知っているか知らないか、

ぎりぎりの文章を書いてみて、

読んだひとに伝わるか……という、

試みをよくやります。

そもそも、そんなわかりにくい

表現を相手がわざわざ咀嚼してくれる前提っていうのが、

かなりエゴですが。

 

あとはあれです。

書くことの楽しさは。

日常にファニーさを見つけることです。

なんでもないことを、たのしく表現できるなら、

その日々は、たのしい。

しんどいことも、笑い話にできるなら、

そんなに悪くもないんじゃないかと思える。

しんどい話をしんどいこととして書いてしまうと、

それはしんどいことだったんだ、と確定してしまう。

たいていのことは、

いや、ほとんどすべてのことは、

与太とこじつけの限りを尽くせば、

笑える。

 

無理にそうしないといけない日々を送っている

というわけでは全然ないけど、

あれです、

うまい食パンなら、

焼くだけより、バターを塗りたい。

はちみつもかけたい的な。

その方がおいしいし。

いや、焼いただけor焼かずにそのままでイケる派のひとは

まあ、よいのですが。

 

ちなみに今回の投稿は単なる随想です。

だらだらつづくよ!

 

書くことの楽しさは、

もっとシンプルな部分でもあり、

こどもが画用紙に思うままに絵をかくようなあれです。

単に、表現が楽しい。

表現って楽しいですよ。

頭の中身を外に出して眺める。

そして、それが、残る。

表現したそのときの感情が風化したあとも、

残る。

そのときの感情が風化したあとでも、

それを見ることで、また蘇るものがある。

または、自分をまるで他者をみるように

みることができる。

過去の自分に会いにいける。

 

ぼくは日記を書く習慣があったので、

日記を読み返せば会える。

これは比喩ではなく、ほんとうに、会える。

当時の自分がどんな感情を抱いていたかまで、

わかる。

干渉することはできないけれど。

ただ、初恋のひとに人生初告白して玉砕したときの

日記は未だにちょっと読めません。

そのときの、ハートが砕けたときの残響で

脳内がぐわんぐわんなってる感じを

長大な文章に書き連ねたので、

たぶん読むと、

その感じをダウンロードしてしまう。

たえられるかな。

あえて、読むのもおもしろいかな。

 

でも、今思うと、

その思い出はかなりこっ恥ずかしく、

かなりつらかったのだけど、

玉砕直後、ふだんあんまり喋ったことない

クラスメイトに延々なにかを喋りつづけないと

消えてしまいそうなほどだったけど、

それでも、文章として日記にしたためることが

できたのは、又、そうしたのは、何故だろうか。

 

たぶん向き合わないと先に進めない。

と思ったのだろう。

というわけではなく、きっと、

頭の外に出してしまいたかったのだろう。

 

と、いうように、

しにたくなるような気分でも、

書くことでなんとかしなずに済みます。

 

なんかすごい後ろ向きな感じになってますが、

文章を書くってすごいぞ。

と、そういうことです。