なんでノート買ってまうんやろなマジで
なんでノート買ってまうんやろな……。
あの、なんでノートってつい買ってまうんやろうな……ってときが、わりとある。
ノート。前も買ったけど、また買った。前のを使い切ったわけじゃない。別の用途で使おうって用事があるわけじゃない。手書きでメモとか図案を書いたりする習慣もあんまりない。でも、また、買った。
まあ、文具は好きで、休みの日、やることなかったらだいたい文具屋いってる。文具屋にいくつもりなくても、いった先で文具屋の気配感じたら足を向ける。結果、文具屋にいく。
文具っていろいろある。いろいろあるけど、見ちゃうのはやっぱりノートかなあ。とくにA6やB6サイズのん。
何でだろう、何で好きなんだろう。わからん。まあ、使うのは使う。頻繁じゃないけど使う。一応持ち歩いてるから、なんかの打ち合わせのときとか、使う。スマホにメモるのが相手から見たらゲームしてるのかメモしてるのか所作にあんまり違いが無いから、なんか、手書きの方にしてる。そのくらい。
だから、いま持ってるノートで事足りてるし、ページ全然あまってる。でも、また買っちゃう。ぜんぜん合理的じゃない。使い切ったら次が要るけど、それ、いつよ!? という感じだ。でも、まう。つい、買ってしまう。
なんでしょうね、消耗品というには消費ペースは遅い。小説とかは買ってなかなか読まないとかあるけど、ノートはどのノートも中身は白紙だ。でも、買う。
あの、先日買ったノート、写真のノートね、「ロルバーン」という銘のノート。ちょっと大きめの文具屋いったらだいたい見かけるリングノート。これを、良く、買う。今回買ったのは、ドイツのデザインユニット「レッドフライズ」が手がけた図案を表紙にしたモデル。
https://shop.delfonics.com/fs/delfonics/cat752/600250
カワイイ。可愛くてしんどい。結局カワイイ。そんなん、買ってしまう。
あの、ロルバーン、機能性もね、いいんですよ。リングノートなので任意のページを開いたままにしておける。表紙と裏表紙はボール紙めいた頑健さで安定感ある。巻末に透明のポケットが複数ついてる。全ページにミシン目がついてて、必要なら切り離せる。ミシン目は見た目にはわからないくらい細かな細工で、意図して切り離そうとしない限り存在が気にならないってのも良い。頑丈。しかも、カワイイ。
便利だ。優秀。いまは完全ペーパーレスの会社で働いてるから仕事では出番ないですが、カフェのバイトしてたころは上記の特性がハマって、能率的なメモをおこなえていたし、今たまにやってる出張コーヒー屋のときも重宝してる。
なんだ、使うじゃないか。用途あるじゃないか。いやいやいや、たまのことなんですよ。それは。一冊使い切るのに数年かかってますからね。でもなー、まうなー。まうまう。まうんですわ。
たぶん、あれです。きっと。
ノートに、白紙のノートに、期待とか希望とか憧れを投影してるのじゃないか。なりたい自分とか、こうありたい、とか、こういうことしたい、とか、自分はこういうことがきっと出来る、とかそういう。
あのー、クルマ欲しい、ってときがあったとして、きっと、そのとき考えることって、それに乗ってあそこに行きたい! とか、あの子を乗せたらきっと楽しいぞ! とか、あの道を走ったらぜったい気持ちいいぞ! とか、そういう、未来と未来の自分を考える。そんなようなあれ。
とか言語化すると、そういう感じだけど、いいノートを文具屋で見かけたときのトキメキはリクツじゃない。無意識に、本能的に、いつでもどこでも【書くこと】をしたいのだ。そういうことなんだ。嬉しい。それは嬉しいことだ。
おとなになると、「自分が好きなこと」と「自分が好きだと思い込んでること」の区別がつかなくなってくる。素直なエモーションでいたいのに、周囲の影響とか時間の制約とか積み重なる知識や経験とか、纏うノイズが多すぎる。でも、少なくとも、どうやらノートは本当に好きみたいだ。それは書く道具だから、好きみたいだ。それがわかることが嬉しい。書くことはちゃんと好きらしい。
というヘリクツはいいから、買ったら使えよな! おれ!
我をわーい^^vってならせし者達へ
あー、アナタは、自分の書く文章とか創作物が好きか。
あの、ぼくは割と好きです。自分から出てくる、なんか、思考のまろび出モン。例えば、ブログやnoteで書く文章とか。
なんでしょうね、ハードルが低いんですかね、たぶん。ちょっと、なんか、日本語を駆使して意味のある文章を書くと、えらいね、ってなる。なかなかできませんよ。日本語を駆使して意味のある文章を書くこと。
いや、違くて。違くないですが、えらーい^^ ですが、そうでなくて。
えー、つまり、一応、まあ、楽しんで書いている。ノリノリで書いているのである。それは間違いない。
ただ、なんか記事書いた直後とかは、この文章おもしろいか? とか、思う。いや、大抵、あの、思ったこと思ったまま思った順序で並べただけっちゃだけの雑文ですからね。これを世に出す意味とは……? 読む人がいたとして、その人の黄金ともいえる時間という資源を、ぼくの文章を読むという行為によって、なんか、切れた輪ゴムみたいな価値におとしめてやいないか? とか思う。思ってるかな。たまに思います。
いや、わりと書いてるとき楽しかったし、そこそこおもしろいんでは? と思って投稿前に読み返すんですけど、ヌゥー……と、なる。深く考えると、その先に待っているのは『無』なので、深く考えるのはやめるんですけども。
でも、あれです、昔から「書いたら投稿する」って決めてるので、どんなに、排水溝のぬめりみたいな文章でも、書いたら投稿するって決めてるので、書いたら投稿はします。
んで、翌日くらいに、読み返したら「おっ、この人けっこう良い文章かくね!」ってなる。あれだ。自賛・オブ・自画!
あれかな、時間置くと、客観的に読めて、ただの自分とセンス近い人の書いた文章ってことになり、読みやすいから、おもしろく感じる。ということかな。実際におもしろいかどうかってより、そういうカラクリなんでしょうね。あの、寝てるとき見る夢、自分だけがおもしろいみたいな感じ。人に話すと立ち強【ふーん…】を喰らう感じ。
というふうには、思っていなくてですね、おもしろいと思っている。自分の書くやつ、おもしろいと思っている。他人が読んでもおもしろいんじゃないだろうか、と思っている。
ハードルが低いのか。低いです。自分大好きか。フツーだ。
でもフツーのやつが、ポメラを駆使し、日本語を駆使して意味のある文章を書き、インターネッツを駆使してアップロードして、どこかの愛すべき誰かの時間と脳のリソースを駆使させるのであれば、それは、立ち強【えらいね】だ。
そうなのだ。自分だけで良いと思ってるだけじゃ満足できない。愛すべき誰か、読んでくれる誰かの存在は絶対に、いる。
文章書いて投稿ってのは、たぶん15,6年くらい前からやってる。最初は高校生のときだった。
ホームページビルダーでテキストサイト作って、今みたいな雑文アップロードしてた。続けてると「おもしろかったよ」って掲示板に書いてくれる人がいて、むちゃんこ嬉しくて、嬉しすぎて「わーい!生きる」ってなったと思う。
でも「わーい!生きる」って高校生のときはなったんですけど、えらいもんで、人っていろいろ経験するなかで、磨耗するものがあるのも確かで、なにかこう、素直に喜ぶってことが出来なくなってくるもので、それが投稿した記事にスターとかいいねをつけてくれる人がいたとしても、嬉しいっちゃ嬉しいけど、昔ほどじゃなかったりするかっていうとそんなことは全然なくそれはめっちゃ嬉しい。むちゃんこである。依然としてむちゃんこ。
だから読んでくれてありがとう~^^v
褒め、まじ、だいじ
大人になると、あんまし貰えなくなるものがある。もらえる人もいるんだろうけど、当たり前ではなくなる。自然にもらえることはあんまりない。
しかし、欲しい。欲しいってか、要る。要する。喉渇いたら水を飲むように。眠たくなったら眠るように。
それは“褒め”。褒められること。
大人だって、いやむしろ自立してる大人ほど、要る。
だって、あの、仕事とか大変じゃあないですか。まあ、経験と慣れで、大変じゃなくなる部分もありますけど、誰でも出来ることをやってるんじゃないはず。でも、わりと当たり前に出来るようになるので、当たり前に出来てるように見えますが、でも毎日「今日こそ急に当たり前に出来なくなるんじゃないか」って少しだけ思いながら業務開始してる。
当たり前じゃない。褒めて! ってなる。
あの、職場で褒められた。つまり、褒められて嬉しかったってだけの話なんですけど、嬉しいですよね、褒められると。おいしい。甘露。
いや、もともと、こう、良い職場で、褒めて伸ばす社風なんですけど、仕事たてこんでると、そういう空気は薄れる。褒めを供給する機会があったとしても新人さんに回りますよね。いいんですけどね、それは、しかし、まあ、つまりぼくは渇いていた。
体調にも影響でる。朝が起きられない、出勤の足取りが重い、眠りが浅い、とか。
まあ、因果関係あるか不明だ! でも、最近、そんな感じだった。
で、先日、仕事中に、急に呼び出された。やましいことそんない無いですが、急だったので完全にやらかしたと思ったけど、与えられたのは、渇望していた“褒め”だった。わーい。
なんか、褒められた。なんか、ってのは、本当になんかで、あの、あるんですって、そういうの。こう、業績みたいな会社への直接的な貢献度以外の「なんか、貴方、いいね」っていうのを評価する仕組みが。
勤務態度が良いとか欠勤しないとか挨拶ちゃんとするとか含め、なんか良い感じかつ真摯に仕事してる人、だれか一人ピックアップする時期だったらしく、それに選ばれた。へー、ってなった。
選定に携わった複数人から真っ先にぼくの名前が出たらしい。へー。
寝耳に水すぎて、へー、しか出ぬ。しかし、嬉しみの「へー」だ。
ぼくのやってる当たり前はちゃんと当たり前じゃないって思ってもらえていた、ってことだ。嬉しいことだ。大人だけど、えへへ、ってなった。
いやーありがたいですよ、日々フツーに出勤してフツーに働いてることを、ちゃんとピックアップして評価してくれるの。
しゅー、ってなった。モチベーションが上がる音が聞こえた。それは大げさだ。でも、最近慢性的にあった、気だるさがだいぶん緩和した。褒め、まじ、だいじ。
あの、これを書いてるのは、夕方、オフィス街の地下にあるドトールでして、窓辺の席から、地下街を帰宅するOLやサラリーマンが歩いている。大阪の中心なので、右からも左からも無限に歩いている。同じ人がループしてるんじゃないの、ってくらい人の往来は途切れない。
日々はたらく人たちに、“褒め”は行き渡っているのだろうか。
やー、なんか、大きなお世話だろうけれど、あれだ、ぼくは放っていきたい。できるだけ放っていってる。うまく言葉に出来なくても「全然うまく言えないんですけど、なんかいいっすね」って言ってる。
言われたら嬉しいもんね。報われる。ぼくは、そう。
言われたくない人もいるのかな。そっとしといて欲しい人とか。まあ、「大きなお世話だ!」って怒られたら、さらにもう一回くらい言ってそれでも怒られてから考えます。
「乙女文藝ハッカソン」が創作意欲を起爆する
一番最初にいっておきますが、これは、このまんがは、この「乙女文藝ハッカソン」というまんがは、小説でたたかうハチワンダイバーです。
つまり、めちゃめちゃ熱く、魂が沸騰し、小説をめちゃめちゃ書きたくなる。「おれも……!」となる。
もうそれだけなんですけど、もうちょいいろいろ書いたので、ハチワンダイバーぼくは大好きですけど全然伝わってない可能性あるので、まあ、下記につづく!
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
あの、たまに小説を書いてみると、すごいゲーム性を感じる。あっおもしろいなー、と思う。
あの、こう、情景とか心象とか物語とかについて、作者の中で完成してる物語があって、「言葉のみを使う」とか「○○文字以内で書く」という媒体の制限があって、その制限の中で作者はいかに読者の脳内に「おれのさいこうにおもしろい物語」をぶち込めるか。そういうゲーム性。
あの、将棋みたいなね。「言葉」は「駒」で、「文字数」は「手数」。決まった制約の中でどこまで切り込めるか。
そこにはバトルが生まれる。ゲームだから。ゲームには対戦相手がいる。
そういう、小説をテーマにしたバトルまんがが「乙女文藝ハッカソン」です。
舞台は文芸サークルの魔窟「栃木大学」。クセの強い学生小説書きが次々登場する。
そして、小説を書くことがメインテーマに物語は展開する。いや、そらそーなんですけど、人間ドラマとか恋愛要素とか、ほら、盛り込まれがちじゃないですか。じゃなくて、主軸が「小説を書くこと」になっている。
まあ、タイトルの「文藝ハッカソン」ってのが、たった1日で5万字の小説をチームで完成させる、という文藝デスマーチ的競技のことなので、そらそう。
ってか、この作品そのものが、けっこう濃密かつわかりやすい、小説講座になっている。
主人公が文学少女かつ“執筆処女”であり、大学進学して入った学生寮のセンパイがめちゃくちゃ物語構造に詳しく、小説を構成する要素や展開のテンプレートとかアイデアだしのコツとかを、ときに優しくときに強引に教えてくれるのだ。
あと、パワーワードってか、膝をたたくってか、強い言葉がちょいちょい出てくる。いくつか抜粋すると――
執筆処女の主人公が文藝ハッカソンの練習として、3時間1200文字のショートショートを書くことになったときのセンパイの発言です。
ああああ、ってなる。わかる。虚無に陥る。
もうひとつ。
時代性・テーマ・題材・世界観・キャラ・関係性・展開など、小説作品を因数分解して、最後まで消えない個性が「文体」
実際にチームでひとつの小説を書こうってなったときのセンパイのレクチャーですね。これ、妙にアツさを覚えた。
えー、まあ、もう単に、このまんがの面白かったところをただただ羅列していってますが、あとは、執筆ツールがね、登場人物の執筆ツールが全部違うの。
主人公はiPad Proにスマートキーボードの組み合わせ、SF研所属のセンパイはWindowsパソコンのMS Word、ミステリ研所属のセンパイはポメラ(たぶんDM20)っていう具合。
ガジェットいろいろ、まじ楽しい。
あの、あれですね、他にも紹介したいポイントいろいろありますが、しかし、そんな諸々を丸呑みにして「いいからおもしろいから読んで」が暴走する。制御できない。
ぼくはこれまでだ……。そこのアナタ、小説書くんでしょう? これを……このまんがを。アンタが虚無に呑まれそうになったとき、これが突破するためのブーストになる。
あと、こちらで一部無料で読めますよ。
乙女文藝ハッカソン - 山田しいた / 第1話 文藝沼 | コミックDAYS
ゼヒ!!
濡れたいわけじゃない
いっつも、ぼくが餃子を焼くとフライパンにめっちゃ貼り付くんですが、あの、しっかり焦げ目つけてカリッとさせたいから、カリッとした焦げ目ついた餃子って素晴らしいからしっかり焦げ目つけようとして焼くんですけどそしたら、めっちゃ貼り付く。
結果、お皿に盛り付けるときに、皮が破ける。泣く。デパ地下とかでちょっと良い餃子買ってきたときなどに、そうなったりするので、泣く。
泣きませんけど、落胆する。【がっかり】のステータス異常を被っての、晩酌となる。いや、おいしいんですけどね、餃子は。ぼくは知っている。皮が破れてないほうがおいしい。
で、フライパンにせいでは? と思ったのでフライパンを買いに行きました。道具のせいにすることで、心のバランスを取る作戦です。あわよくば、ほんとに道具のせいだったら、結果オール・ライト。皮に包まれた餃子がおうちで召せる。
京都の一角、平和堂というスーパーの、フライパンコーナーのラインナップの中で、星三つ付いてるやつが良さそうだった。
星五つまであった。三つはなかなか優秀だろう。対磨耗試験で50万回までクリアしたらしい。星一つは10万回、星二つは20万回だから、なかなかのもの。それがどれくらい強いのかわからんが。ちなみに星五つは200万回だった。すげー。なんか、すげぇ。
で、フライパンは、まあ置いといて、まあ、そういう、生活の道具をみるのが好きで、各社企業努力でいろんな性能や特性のものがある。使ってみないとわからなかったり、使ってみてもわからんような違いかもしれないけれど、そういう「こだわり」を知るの楽しい。
あの、バス用品コーナーが隣だったんで、用事はないけど見てた。シャワーヘッドとか、いろいろある。節水タイプとか、水の粒子がめっちゃ細かいのとか、ワイドなのとか、いろいろ。へー、いろいろなんだなーおもしろいなーと思う。
その中で、『シャワー本来の浴び心地!』というキャッチコピーのんがあった。
何でしょうね。『シャワー本来の浴び心地!』。本来。
本来のシャワーとは。普段われわれが浴びるシャワーではない真のシャワーがあるのか。
なんか、“本来”って言葉って、こう、料理とかで「北海道の大地で育った素材本来の……」とか、あとは「野山で駆け回って遊ぶのが、人間本来の本能を呼び覚まして……」とかいう感じで、由来が自然から来ているものに使われるイメージ。
その感じで言うと、【雨】か。このシャワーヘッドが再現した【本来】というのは。
ポメラに実装される「明鏡国語辞典」によると、
シャワー[shower]
[名]
じょうろ状の噴出口から水や湯を雨のように注ぎかける装置。また、その水や湯。
とのことだった。ほう、やはり雨か。
んでも、雨に降られたときに心地よく感じたこと、まあ無いですけどね。だいたい濡れたくないときに浴びるもんですし。
でも、本当は、良いものなんでしょうか。雨って。
我々は大人で、何者かであり、日々、服を選び、髪を整え、街へ赴き仕事したり別の大人に会ったりする。雨はそれを乱すものだ。濡れたくない。社会で生きるのに自然現象はおよびじゃない。
……っていうのを取っ払って、裸の気持ちで浴びたら、雨って気持ちいいのかな。そのシャワーヘッドを使ったら、バスタイムが、社会に生きる人間としての生活スケジュールのひとつとしての時間じゃなくって、ただの裸の動物になれる時間になるのかな。自然の中に戻れるのかな。
だとしたら、なんだか、素晴らしいんじゃないか。
素晴らしいと思いますよ、そこのアナタ!
ぼくはフライパン買ったから帰りますね!
オシャレ迷宮〈フ・クー〉の導き手、妻
〈しまむら〉に行った。妻と。
妻と休みかぶったので〈しまむら〉に行きました。妻の御用達の店です。〈しまむら〉。コスパです。コスパが素晴らしい。
コスパ素晴らしいって、素晴らしい。
ってか〈しまむら〉、いつもレディスのラインナップの豊富さに嫉妬する。
ふつうにオシャレなの売ってる。んで、当然安い。いいなあ。それに比して、メンズは……
まあいいのだ。ぼくは、良い。
あったかインナー買ったから、良い。収穫だ。RPGの武具で言うと、メインの装備とはならないが、補助的な効果を付与するアクセサリだ。
なんか、【《冷気》属性攻撃のダメージ30%を軽減】みたいな。
重要だ。これから冷気属性の精霊がフィールド上で優位になるターンが始まりますからね。重要。
まあ、セーターっていっても、ニットっていってもいろいろあるんですね。
ローゲージ、ハイゲージ、クルーネック、ハイネック、ゆるふわなの、バルーン袖、萌え袖をおこなうのに最適化されたの、C.W.ニコルが着てそうなの――とか。
ディスプレイから推察するに、トレンドはローゲージ(粗編み)で袖が長いのっぽい。
セーターが特集されたコーナーには、モデルさんがトレンドのセーターを着こなす写真パネルがある。
こう、物憂げな表情のモデルさんが、ローゲージの、落ち着いたピンク色のセーターを萌え袖気味に着用し、両手を顔の近くに持ってきて軽く指を曲げる構えが最も強いようだ。
【無防備なネコ】の可愛さをエンチャントできる形意拳めいて戦闘力が向上しているのを感じる。
妻も、同じセーターをためつすがめつする。しかし「でもなー」ってなってた。「後ろ指さされへん?」と。
モデル着用のセーターみたいに、ネコめいた丸いシルエットを模範とした場合、怒り肩がネックになるらしい。
自分のスタイルには、かわいすぎるんだって。無理して着てる感が出る懸念があり、まずいようだ。妻が自分で理解している、自らのスタイル・ポテンシャルを最大化するには不適切なチョイスであるようだ。
似合うと思うけどなー。でも、妥協無く最大威力を見込める装備を探求する姿勢、カッコいい。
結局、ほかの店で、ローゲージ(細い毛糸)の黒のセーターを買っていた。けっこうボディライン出るやつ。骨格的にそれのんが合うんだと。
うん、確かに、似合う似合う。
単体でも、オシャレ値はコスパ良く向上しているし、手持ちの服との相性良く、相乗効果も見込めそうだ。
今日のお買い物ミッションのリザルトは上々。
そういや、ぼくには何が似合うか自分であんましわかってないな。
ベースとなる自分をあんまり理解してないから、今まで買った服と似たようなのをなぞるだけになる。基準がわからんと、冒険もできない。
でも、あれなんですよ。妻と買い物に行くようになって、服の選び方が少しだけわかって、昔の自分では選ばなかったような服を買うようになった。昔の自分では選ばなかったような服だけど、冒険じゃない。ちゃんと似合う服。そういうのを。
こういう服も、アリなのか! という発見がおもしろい。妻と行くと、そう。
なので、まあ、ひとりで服を買いに行けなくなったよ!
ポメラと生活
数日前に手に入れたばかりですが、こう、好きです。言い訳ができない。整ってしまう。
なんか書くことについて整ってしまいます。
ポメラを得たことで。
この筐体が、無駄のない黒い肢体が、そのデザインが言ってくる感じが、良くて。
「書く?」と。
常に。視界に入るたびに。その存在が無限に、投げかけてくる。
存在=問いかけ、であり、目減りしない。
書くか、書かないか。
はい、か、いいえ、か。
なんだか、かまってほしい黒猫めいていて、カワイイ。
そういうのを求めていました。
そりゃあ、書くじゃないですか。
それが「愛(め)で」となるなら。
「愛で」は尊いです。きっと。
まあ、あの、楽しいです。
もういい年ですけど、文章を書くのがずっと趣味です。中学生のころはキャンパスノートに。高校生になってパソコンで自分のテキスト系ホームページ作って。それからはブログやツイッターやnoteで。
パソコン買い換え時だったけど、パソコンかポメラか、という場面がありましたけど、あんまり迷わなかった。あんまり迷わずにポメラDM200選びました。
たぶん、より一層、多くの何かが生み出せる。
あの、書くことは、こう、救いでして。まあ、そんな辛い人生歩んでるとかでは全然ないんですけど、まあ、人並みには、人間なので、いろいろ、ある。
いろいろあることを文章として書く。
あの、書くこと自体がそもそも楽しい。書くこと自体楽しいけど書くネタが無いと困らなくもない。でも、日々のいろいろは、それがいろんな意味でいろいろであるほど、書ける。書く口実になる。
楽しいですよね。そしたら。日々。
ウィズ・ポメラ。