おれ、つけ麺でエトランゼ

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めちゃくちゃ久々につけ麺を食べました。

東梅田にある「つぼや」ってとこ。


つけダレがちょっと甘くて、麺はツルツルもちもち小麦小麦で美味い。

食べ終わったあとほんのり残る舌の痺れで分かる、ほどよいスパイシー感…


「つぼや」のつけ麺美味しかったです。

「つぼや」のつけ麺美味しかったですってことを言いたいわけじゃなくてですね、なんか、こう、アレを感じた。

必然性を。

ぼくは今つけ麺を食べるべくして食べ然性を感じた。


なんか、職場に忘れ物してるのに帰宅してから気づいて、あーでもめんどいし暑いしなぁーでも明日休みだし後日に回すのも困るものだしなぁーってなって取りに戻ったんですけど、晩ご飯食べないままだったので、近くのつけ麺屋を思い出し、入った。


あれです、余計な行動なわけじゃないですか、忘れ物取りに行くのって。

でも余計な行動が意味を持った。


つけ麺が美味かったので意味を持った。

このタイミングでなければ、ごはんは家で済ませてただろうしなあ。


いや、まあ、つけ麺美味かったんですけどつけ麺美味かったっ話がしたいわけじゃなくて、こう、なんつーのか、いつもと違う行動をした。

想定内の行動パターンからちょっと出た。

 

場所的な話じゃない。

場所的な話じゃなく、つけ麺屋にいるとき「ここではないどこか」に居る感覚だった。

いま自分は知らない場所にいる、未知の味を体験してる、いつもと違う行動をしている。そのワクワク。冒険。刺激。


麺を咀嚼しながら、つけ汁の旨みを感じながら、チャーシュー齧りながら、そう思った。


あっこれ、つけ麺美味かったって話か。

君の中のアーマードコア

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そういえば、アーマードコアなら……。
というときが日常の中で割とある。

 

例えば、仕事がわかってきた故に従来のやり方を改善する必要を感じたとき。
例えば、少ない予算を手に、鍋の具材をスーパーで選んでるとき。例えば、あの娘に聴かせる最強プレイリストを作っているとき。
例えば、珈琲豆のブレンドを考えて居るとき。

 

どのときも、やり方はいくらでもある。
チョイスは無限大。
可能性は無辺で広大。
でも、選ばねばならぬ。
備え方が無限であるように、起こる事象もまた無限。
多少傾向は読めるけど、実際どうすべきか。

そんなとき。
そういえば、アーマードコアならぼくは。
と思う。
そういえばアーマードコアならぼくは、メインウェポンをハンドマシンガンに据えた汎用性重視の中量型通常二脚を組むなあ。
と思う。
理由は、状況ごとに臨機応変に対応を変化させる余裕がないからです。
バランス型の機体なら、どんな状況にもだいたい同じ戦法でだいたい戦える。
アーマードコアを通じてそれをぼくは学んだ。

 

えー、まあ、あの、ゲームです。そういう。人型メカカスタマイズアクションゲームです。アーマードコアというのは。
前にハマって以来、アーマードコア的攻略法が人生のそこここで去来します。

それでですね、プレイヤーの中にはもちろん、状況ごとに全く違うパーツ構成の機体をアッセンブリして出撃する、レインボー対応できる人も居るでしょうけど、ぼくは無理だ。
それよりも完璧な一機で戦い抜きたい。
リスクの少ない装弾数の多いマシンガンを選び、マシンガンが苦手な遠距離対策には補助的に軽量ミサイルを背負い、中距離での回避力と長時間の高速移動を強いるミッションへの対策として燃費の良いブースターと平常時冷却性能の高いラジエーターを積み、機動力を損なわない重量を保ちつつ最大限の防御性能を持つ装甲を装着して、いざ、出撃して、欠点が見つかれば微調整してまた挑み、それを繰り返す。


ときにはいくらパーツを調整してもクリアできないこともある。
それでも意地で戦い抜くか、根本から機体コンセプトを見直すか…。


また、自分とまったく異なる考え方で組み上げられた機体に出会うこともあるだろう。
そんな発想もあったのかと驚く。一見無駄のようだが、絶妙なバランス感覚でパフォーマンス向上に成功してる。
……いや、そのプレイヤーが操るから出来るのか。


そうしてアーマードコア的な価値基準を研磨していく。
アーマードコア的な価値基準を研磨していくことは、日々をゆたかにする。
ぼくは、そう。

 

あなたの心にアーマードコアはありますか?
あなたにとってのアーマードコアはなんですか?
きっと誰もが持っていますよ。安心して。

フレデリックの新譜が出るぞ!という脳内祭り

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好きなバンドの新譜が出る。

好きなバンドの新譜が出るのである。

その状態。事態。未来の明るさ。脳が開く感じ。イヤホンから奏でる音楽が通勤時間に色を与える日々。

新譜を出すってことは新譜を引っさげてライブがあるぞ。というかもうチケットは取ってある。

ワクワクする。胸が。鼓膜が。脚が。

えー、まあ、好きなんですよね。フレデリック

明日でる。新譜。

「飄々とエモーション」。

もともとはラジオから流れて知った。

そのときは意識してなかったのに、仕事中突如、脳裏にフレデリックのメロディが去来し離れなくなった。

アルバム「オドループ」を入手して聴き込んだ。

ループする歌詞、中毒性の高いメロディ(多分、脳と身体が気持ちよくなることにめちゃくちゃ注力された音作りしている)ループする歌詞に気がついたら一日中、

“パイプの中からケムリがもくもく”

だった。

パ・イ・プ

ケ・ム・リ

パ・イ・プ

ケ・ム・リ

だった。

YouTubeにもライブ音源多数です。

なんつーか、オシャレなバンドである。

メンバーもみんなカッコいい。ライブ行ったら若い女子多い(あんがい老若男女いるが)。

ベースと作曲担当の三原康司さんは昭和の歌謡曲や70〜80年代ディスコミュージックに造詣が深く、その音はキャッチー。

なのだけど、ぼくが好きなのは取っ付きやすい面ではなく、獰猛に脳に寄生してくるところ。

イヤホンつけられなくっても仕事中でも、イヤホンから脳に寄生した悪魔がときどき袖を引っ張って心躍らせる。

音楽ってステキだなと思った。

CD買ったり音楽好きな人の気持ちを知るきっかけになった。

ボーカル三原健司さんの歌はとても聴き取りやすくって歌詞が良く耳に入ってくるのだけど、言葉遊びが過ぎるのかセンスが独特なのか、聴こえた上で???となるのも、良い。

言葉の可能性、エモい。

意味がわからんけど、意味が無いわけじゃないのも伝わるので、ふわっとしてて何度も聴ける。

そして、明日はそんなフレデリックの曲が4曲増える。また生活に色がつく。

詩を読んでヒゲのばす

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なんか、詩ってクールだな、と。
小説のように言葉を尽くすわけでなく、
歌のようにメロディも無い。
ミニマルな言葉のみで
表現してる感じがクール。
センテンスを心に投げ込んだときの、
その波紋の重なり合いで
イメージを描画する感じがエモい。

 

あと、ぼくは、何か説明するときに、
つい余計な言葉を
足してしまうタチなので、
なおさら詩の洗練に
憧憬をおぼえます。

 

えー、それで、
先日、セレクト古書店で購入した
「詩とメルヘン」に掲載されてた、
【どこかの夕暮れの中で】という
詩が良くて。

要約すると、

 


どこかの町に「あたし」と良く似た誰かがいて、その人が「あたし」より少し綺麗な人で、「あたし」よりもっとしあわせであって欲しい。
そして同じ夜空の星を眺めていると良いな。

 

という内容の詩です。
美しくて希望があるようで、
どこか諦念も感じられ切ない。

 

でも、しかし、その「あたし」より
しあわせであって欲しい誰かは、
「あたし」自身かもしれないわけで。
「あたし」が誰かに
何かを託すように、
誰かも「あたし」に何かを
託してるのかもしれない。
願いはもう
叶っているのかも知れない。

 

こう、なんか、
「あの人みたいに
 ヒゲが似合う男になりたい」
って思っているアナタは、
実は既に「メガネが似合う男」
なのかも知れない。
「ヒゲが似合う男になりたい」
っていうのは別に、
「ヒゲが似合う男になりたい」
って意味じゃなくて、
「今より少し良い自分に変身したい」
ってことだと思うんですけども。


えー、また同時に、別の
「あの人みたいに
 メガネが似合う男になりたい」
と思っている人がいたとして、
アナタは既にその人の願いが叶って
変身した後の姿かも知れない。


アナタは既に誰かにとっての
「今より少しだけ良い自分」
かも知れない。

なら、もう叶ってる叶ってる!


「いや、でも、ホント自分なんて
 大したことなくて、
 やっぱりもっと良くなりたい」
とかいう向きもあろうが、
でもそれ言い出したら多分
どうなっても常に現状を
「自分なんて大したことないっすよ」
って捉えると思うので、
願望がループし円環は閉じられる。
願望がループし円環は閉じられるなら、ゴールと思ったときそこがゴールという
システムが使えるので、
「いまの自分、そこそこサイコー」
と、ごきげんに締めることが出来る。

 

あの、まあ、要するに結局、
いま急に思い立って
ヒゲのばしてるんですけど、ぼく。
で、これどれくらい
伸ばしたらいいもんなの?
って自分でも
わからなくなってるんですけど、
上記の詩を読んで、
結局、伸びゆくヒゲの具合の
その瞬間瞬間の味わいを
良しとすれば良いんだなぁ、
と思ったのでした。

 

そういう詩か?
いえ、その自由さが詩のクールネス!

読まない世迷いごと

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本を読もう。


本屋いくと、楽しい。

幾多の世界や知見に通じる

魔法のエントランスめいて、

わくわくする。

自分も何か書こうとウズウズする。


本って、あれじゃないですか、

中身読まないと

内容わからないじゃないですか。

でも、中身読まなくても

中身がわかるように

表紙の装丁やデザインや写植があり、

また、それらは一目見た人を

一目で惚れさせるべく

全ベクトルを本を選ぶ人に

向けてきてる。

全ての本が、

わたしはステキな本だよと、

連れて帰ってと、

趣向を凝らした紙面や

版組みのステージで、

魅せる活字を写真をイラストを、

その全きを脳にぶち込んでと、

トリップさせてあげるからと、

言ってきてる。

しかも書店員さんにより、

そんな本たちのスペックが

最大限に発揮されるよう

企画/陳列されている。


なんというか、こう、

そう考えると、本はきっと、

読者のことが大好きだ。

本屋に行けば、

ぼくのことを大好きな存在に

囲まれることになる。

どこに視線を移しても、そう。

そら楽しーわ!えへへ!


まあしかし、本屋いって

そんな風に感じるのはきっと、

ぼくが本を好きだからかな。


ともかく、本屋で得られる

なんかのモチベーションを

ワクワクやウズウズを、

どっかに転用できればなぁ

といつも思う。

いつも思うんだけど、

本屋をでたら割と霧散する。

霧散するので、

その日、本屋で、

最も高いワクワクを観測した本は

どれだったか吟味し、買って帰る。

買って帰るけどやっぱり霧散する。


たぶん「本屋で選ぶ」状態と

「買って所有している」状態では、

本に対する感情が

変わってしまってるからだろうな。


では、「本屋で選ぶ」状態のまま、

そのときの感情を保存するには?


可能なら、本屋で広がった

いろんな想像や感情を

ガソリンにして文章かいたりとか

したい。


保存するには

どんな方法があるだろう?


本屋で閃いたことは

本屋にいるうちにメモするとか?

って思ったけど、

あんましマナー良くない気がする。


買って読むから、買う前とは

気持ちが変化してしまうのなら、

買うけど読まないようにする?

……案外良いような気がする。


目的はワクワクと

ウズウズの保存なので、

炭酸が抜けるように

保存し続けられなくなってきたら、

もちろん中身はちゃんと読む。


そして、そういえば、

ウチに随分前に

そんなようなことで買ったものの

読んでいないままの本が

けっこうある。

読もう!

あーだこーだ言ってねーで。


あっ、読もう!という話でした。

ご飯とお酒を美味しくすべく、いざ!異動!

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仕事で明日から部署異動だ。いまの部署長かったからちょっとしみじみ。
好きな業務も多かったけど、明るい未来へ向かう、自分で選んだ異動なのだ。
明るい未来というのは、要は、こっちのんがラクできるんじゃねぇの? という意味でだ。
いや、あのですね、まあラクというのは、あれですよ、ラクって意味じゃなくて、怠けられるって意味じゃなくて、こう、打ったパンチが当たる感じというか、ほら、空振りが一番疲れるって「はじめの一歩」で言ってた。
なんか、やり甲斐というか。
いやまあ、今の部署がやり甲斐なかったというわけではない。
でも慣れてくると、感覚が無くなってくることもある。
感覚がなくなると何を打ってるかわからなくなり、何もない空間に向かってパンチしてるみたいな感覚になる。
それは、けっこう疲れることだ。
これは完全に例えだし与太話なので、今の部署が働いてて空振ってる感じするとか、新しい部署がすげー当ててる感じあって気持ちいいとかではないです。
新しい部署のミットの感触知らないですし。
ともかく、なんか、より心穏やかに日々を生きるための異動です。
基準に置いてるのは、業後のメシやお酒が美味しく感じるかどうか。
業後のビールが堪えられない喉越しにレベルアップするなら、オールライトなのだ。
さあ、新しい部署のビールの味はどんなだ。おつまみ何にしようかな。最近、大好きな焼き鳥屋に行ってねぇ。
異動するって焼き鳥屋で呑みたくなりますね。夏〜♪

風船割りがしたいけど

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ひとりで休みを過ごすことについて、皆どう考えてるんだろう。
やらなきゃいけない家の用事がある、とかはナシにして、自由に過ごせる余暇があるとき、その事実にどう立ち向かえば良いのだろう。
楽しい気持ちになれたらミッションコンプリートなのだけど。

 

自分は何をやりたいんだろう? とかいろいろ考える。何を体験したら楽しい気持ちになれるだろう。

 

なんか、こう、いや、フツーに読書とか映画みるとかでも良いんですけど、それ一辺倒だと意味…なんか意味的なものが摩耗するのを感じる。

 

満遍なくいろいろやるのが良いのか。
でも、そんな毎休みごとに都合よく複数のやりたいこととかないぞ。
いや、あるんですけど、あ、あるわ。
あるんですけどね、わりとそれは決まった内容だったりする。
なのでパターン変えていきたいじゃないですか。
副菜いろいろで嬉しい「春の彩り御膳」でも、毎回は飽きる。

 

なのでパターン変えたいが、変えるほどアイデアが無い。

 

適当にどっか行こかな……とも思うが、楽しくなかったらどうしよう……となる。

 

人と行けば、わりとどこでも楽しい分、ひとりだとどこ行っても下位互換めいてしまう。

 

わりと思うのは、ではその分、ひとりなら、ひとりの世界に深く没入するタイプの楽しみをおこなえば良いのでは? と言うことだ。
ひたすら文章書くとかひたすらガンプラ作るとかな。あと、誰とも好み合わない映画3本立て映画祭やるとか。

 

でも!しかし!だ。


外めちゃめちゃ天気良かったら?だ。
外めちゃめちゃ天気良かったらお出掛けしなければならないというルールあるじゃないですかぁ。
んで、しかも、いま春じゃないですか。春風や桜の花びらで出来た薄ピンクの鬼軍曹がお出掛けを強力にけしかけてくるじゃないですか。

 

それはどうすれば良いのか。
どうすれば良いのかわからないまま、休みだっていうのに考えがまとまらず、結果、マリオカートの風船割りのトリッキーな立ち回りのことや、くにおくんダウンタウン熱血物語で出来得る曲芸の中で難易度と無意味さが最も高いのは何かとか考えてしまう。
バナナの皮の放物線投げをマスターしても実戦で使える場面あんまし無いのに!
転がりタイヤ乗り人間トーテムポールが出来ても見せる相手もいないのに!

 

こういうのはそのときの気分によるところが大きく答えはなかなか出ない。考えてもわからないままだ。
でもひとつわかったのは、ひとりで過ごさなければ良いのでは? ということだ。

 

今度ひとりの休みのときは、「友だちと遊ぶ」をおこなってみるのも良いかもな。
ひとりでもあんがい楽しいかもしれない。