イングリッシュブルドッグみ
どうしていいのかわからなくなる。
例えば、
うちに子犬がやってきたとき。その小さなあたまの匂いに。
好きなひとと手をつないだとき。その温度、生体的しめりに。
ひとは大きな愛しさを感じたとき、
どう反応していいかわからず、
ただただ、正中線上の人体急所、胸のまんなか胸骨らへんに
砲丸みたいな質量の、しあわせに似た暖かな何かを
ぶちこまれるに任せるしかない。
しあわせに似た暖かな、
イングリッシュブルドッグのような。
暖かな何か。
あるいは、街でベビーカーから小さな手足を
ほうりだした赤ちゃん。
だいじな人が目の前で笑っていること。
または、小さきもの、もふもふしていて、儚げな動物。
イングリッシュブルドッグとか。
そういった強強度の、暖かな何かを
どごぉっ
とぶちこまれて、
ひとは、しずかに、自然に、笑顔になる。
ぶちこまれて、自分を構成する因子が爆砕して、
暖かななにかのスーパーナチュラルぢからにより
再構築され、自分も、暖かな何かになる。
そのちからは、いぬやねこがすべからく強い。
その肉球。やわらかいひげ。まるく膨らんだひげぶくろ。
やんちゃな好奇心を感じさせるぴんと立った耳。
すっとのびた凛々しい鼻。けなげなまなざし。
も、良いけど、
のんびりやさしい性格がわかるたれた耳。
あるのかないのかわからないけどやっぱりある、しっぽ。
ずんぐりした体。短いけれど一所懸命うごく手足。
イングリッシュブルドッグとかみたいな。
ちょっとだらしないくらいにたれた顔の肉。
まぶたもそんなだから目があいているんだかわからない。
ナチュラル・ボーン・えびす顔。
ほっぺの肉もだるーんとなってて、
脱力したように少しだけ開いたくちから覗く
ピンク色の愛おしさ。
イングリッシュブルドッグ特有の。
あるいは、というかもう、あの、
イングリッシュブルドッグのはなしですけど、
短い手足を投げだして、うつぶせに眠ったりもする。
社会生命体たる人間には到底まねできぬ本物の弛緩。
トゥルー・リラックス。
なんかそれが楽なのか、どういうつもりなのかもう、
もうなんなんだよもう! と見る者をもだえさせる、
ブルドッグがよくやる横座り。
もう、どうしていいのかわからん。わからない。
わからずに、ただ、笑顔になる。
混乱して、なんで自分がそうなってしまうのかわからなくて、
笑顔になったあと少し泣きそうになる。
主に、イングリッシュブルドッグに対して。
主に、イングリッシュブルドッグのウッディくんに対して。
誌面のむこうの写真の彼に対して。
いやあ、今月号の「SAVVY」、
”モフモフ動物図鑑”で紹介されている、
フラワーショップ「花m」さんの看板いぬ、
イングリッシュブルドッグのウッディくん、
なかなか可愛いですね。
ということが言いたい。
書店に行くたびに、SAVVYを手にとり、
該当のページを開き、顔をほころばせる生活!
いまは、そのSAVVYが危険なことにウチにあるので、
もっと頻繁に該当のページを開くことができ、
もっと頻繁にほころぶことができます。
それが、32歳、我が人生の最先端!
ぺたん、としている。
くたー、としている。
ぐぅぅ、としている。
カゝゎレヽレヽ
想像できるだろうか。
地球が生まれて何億年たった?
生命が誕生してからは?
いや、そもそも宇宙はいつから?
それはまるで途方もなく巨大な意志が、
究極のカワイイを求めてデザインを繰り返すかの如く、
いろんなカタチ、概念、存在が生まれ、
合わさり、対消滅して、また生まれ、
こんどは混じり合い、新たな何かになり、
それを繰り返した。
そうして、星が生まれ、命が生まれた。
到達した。そのレベルまで。
イングリッシュブルドッグのウッディくんまで。
イングリッシュブルドッグのウッディくんの
横座りまで。
カワイイとは何かを求道する巨大な意志が
まず、くろくてもわんとしてるのがカワイイのではないか、
と思って宇宙が出来た。たぶん。
それから、途轍もなくなんやかんやあって、
いま、イングリッシュブルドッグが存在する。
ありがとうございます。
いや、しかし、
こうも感情がうごくとは。
ぼくの心には、
イングリッシュブルドッグみが欠けていたのかも。
気付かせてくれて、暖かな何かを与えてくれて、感謝。
…………。
……もしかすると、
実際に、日本で今生活してらっしゃる、
おいぬに対してのこの文章は、
ちょっと、よしたほうが良いのだろうか。
だとしたら、誤解を解いておきたいのです。
ここまで書いた言葉を約分すると、つまり、
SAVVYに載ってたあのコ、
かわいすぎる! ><
というそれだけなのである。
わりとあっさりした感情なのである。
どうかご容赦を。
それから、
素敵な誌面をつくられた
SAVVY編集部への感謝と、
「花m」さんへ今後の繁栄と、
イングリッシュブルドッグのウッディくんへ
愛情につつまれて健康であらんことを祈ります!
切り取って閉じ込める
手書き日記を長いこと続けてますが、
スマホ持ってからはEvernoteに
日記をアップロードする時期もあった。
スマホで撮影した写真と
テキストのデジタル日記。
その日の写真付き故に
読み返したときの当時の
グルーヴの再現性高い。
この写真とか、地元の川の土手なのだけど、
こういう、
人が通ることで勝手に出来た小道いいな、
と思って撮ったのだけど、
こんなん写真添えないと
わざわざ書きのこさず
忘却の彼方に消える感情だよなー。
いや、残す必要あるのか、
と言われるとたぶん無いけれど。
やーでも、日記という、
その日のことを記録する作業で言うと、
意味の有無に関わらず、
より克明なほど良いのではないかと思う。
さっきの写真で言うと、
その写真のこちら側にはたしかに、
何てことない土手の小道をいいなと
思った自分がいる。
何てことない土手の小道など
本当に何とも思わなくなる自分に
これからなるとしたときに、
その記録は意味を持つのでは。
でも、手書きの日記も、
文字の書き方に
そのときの心のあり様が出て
好きなのよな。
両立には、
ポラロイドカメラ、
チェキ、
スマホからプリントアウト、
などして、
ノートに貼り付け手書きで日記を記す。
と、良いのだろうけど面倒だ。
でも、面倒なものなのだよな。きっと。
それはもう、好き、のパワーで
駆動するならやる、で、良いね。
新年、ドウグとか自分のスタイルとかのことを考える初め!
明けましておめでとうございます!
今年も緩く、ときどき更新していきます。
今回は、ドウグとかドウグを使いこなすこととか人とかそういうようなもんのこととか。
ツイッターにつらつら書いたので、ぺたぺたしていきます。
文具を使いこなしてる人とか、将棋が趣味の人とか、コーヒーを飲まないと調子が出ない人とかに憧れを感じる。それが、流行りだからとか安直だからとかじゃなく、その人がジブンで自然にそれを必要としてるからだろう。そういうのいいなー。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
文具とかでいうと、年末は日記帳どんなのにするか問題。多機能だったりカスタムできたりするのが良さげだけど、使いこなさないよなーとも思う。無理に使いこなそうとすることは「ドウグに使われる」ことになる。それはキレイじゃない。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
でも憧れがあるので、気に入ったペンやノートをいろいろ買ってしまう。日記は多機能な「ほぼ日手帳」にした。ドウグに使われるのも悪くないとも思う。ドウグが見せてくれる新しい世界もきっとある。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
そういえば、カフェのバイトしてたときは、ロルバーンのリングノートを多用していた。リングなので、任意のページでポケットに入れおけてアクセスが早いし、全ページにミシン目が付いてるので、スタッフで情報共有したい内容は千切って掲示できる。ああ、そのドウグの機能を自然に使っているかんじ!
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
ドウグを、ハードに、自然に、必要にフィットして使いたおしたとき、後からふと、そのドウグの良さを染み染み感じるときがある。ある意味、読み物。使うことは読むこと。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
いろんなドウグのそういうのを知りたい。使いこなしてる初めてわかる良さを。そこから、そのドウグの目的がわかってくるし、それを使う他のひとはどんな人だろうというのも見えてくる。ドウグは言語でもあるな。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
コーヒーとか将棋とか、旅とか絵を描くこととか、それが自然に傍らにある状態って、どんな気分でそれはどんな人生なんだろうと思う。人見知りだけど、そういった、その人のすぐそばに常にあるその人のエッセンス経由でなら、人に興味がある。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
なくてはならないらドウグがあることや、ドウグを使いこなすことに憧れているけど、ぼくも生命活動してるし、 #セトコーヒー なる出張コーヒー屋してるし、はたからみたら、何かのドウグ使いこなしてる人間なのかな。いいなー、と思われていたりするのか。言うてー。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
出張コーヒー屋でいうと、愛用のドリップポットなぞは、その注ぎ口の細さや、900mlという容量、蓋の形状や蒸気穴の位置、持ち手のカタチなど、そのほぼ全ての機能の意味を感じることができているし、必要。うむ、ぼくの持ちキャラならぬ持ちドウグは、タカヒロのドリップポットです。アナタは!
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2017年1月5日
日記なー、という感情
来年の日記を買うんだ。
ツイッターにつらつら書いたので、
ペタペタして記事に代える!
サンデーおでかけ。日記帳を買いに行っていた。が、買わず!!まる一年間使い続けることがわかっているアイテムを、ぱっと行ってぱっと買うなど、優柔不断人間にはハードだ。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
かさばらないマンスリースケジュールのみのやつ?ゆったりスペースでとりあえずメモでも日記でも何でも書ける1日1ページタイプ?あいだ取ってウィークリィ?カバーは、革?ナイロン?紙?さらに、トラベラーズノートみたいな、味ある革カバーに好きなリフィルを……というやつもある。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
カバーによっては、ペン差し、ポケットの有無など機能もちがうため、アクセサリーも選ばねばならなかったり、あとスケジュールとかスピーディに書き込めるよう、ペンは日記帳専用に決めておきたいし……など、考えることが多い。そして、考えるの楽しい。ゆえに、決まらない。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
文具好きあるあるだと思うのだけど、いーなーコレ!というノートやら筆記具に出会っても、「スマホあるから多分使わなくなるんだろうな。ぐぬぬ……」となる。というものがある。だんだん、スマホがこの日記帳クエストのラスボスのように思えてきた。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
文具は使うのも持つのも好きだけど、スマホと日記帳/スケジュール帳という、用途がかぶるものを持つのがキレイじゃなく感じる。日本てか大阪、電源どこにでもあるから、スマホに全権与えて困らないしな……。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
とかいうリクツ関係なく当たり前に、日記やスケジュール管理に物理ノート使ってるひとは、なぜ、そうしてるのか訊いてみたいものです。カラフルなペン使いたいからとか、かわいいシール貼りたいからとか、手書きじゃないと忘れるからとかかな。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
日記帳しかり、道具を選ぶときって、それを使ってる未来の自分を想像するのがワクワクする。んでも、良い感じの多すぎると、増えすぎた未来の自分が、わーってきて、こまる。わーっポカポカ!いててて!みたいな。選べるというストレス!ザ・難儀!いや、おおむね楽しいッスが。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
日記についてもうすこし。日記は中3くらいからずっと付けてたけど、ここ数年まとまって書かない日が増えてきた。昔の日記ほど、きっちり書いている。長く書かないことが何度かあったけど、深夜残業の仕事したときとか、最近でも出店カフェ絡みで忙しいとき書かない。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
書かない期間ができてしまったのと違い、慢性的に書く頻度が減ったのは、スマホ持ち出してからか。メモツールとして買ったし、ツイッターもしょっちゅう行うようになったしなあ。もともとブログもやってたし、日常の雑感をそういろんなものに書くほど意義は感じていないし。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
それでも日記帳持ちたさはある。何を書くというのか。スケジュールを持ち歩く精密機械にだけ入れとくのはやはり危険だし、昔から続けていた習慣だし、ドウグとして好きだし、とか、理由付けはできるけど、実際また習慣化できるかというと微妙。理由は意味にはなるけどモチベーションにはならない。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
というか日記ってモチベーションでやるもんでもないよな。そういう向きもあるのかな。ともあれ、剥離しかかってる手書きの日記つける習慣をリスタートするには。そらもう書くことそのものを楽しめば良いよね。日記は始めた中学生のころは、文章を書くことそのものが楽しくて仕方なかったし。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
書くことを楽しむ。手書きを楽しむ。最近入手したイカしたファンシー鉛筆あるし、良い鉛筆削りもある。あとは、活字中毒みたいな感じで中毒になってしまえば良い。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
……と、そうまで自分を鼓舞してやるもんじゃないぜ、日記!……と、いうような日々の屁理屈を延々書き連ねてモノとして残し、後年それらを眺めてアホだなー、とニヤニヤしたい。だけかもしれぬ。
— セトシンときどきセトコーヒー (@Sin_V) 2016年12月11日
書くことを書く
文章を書くことが好きだなあと思う。
あたまの中身を外に出して眺めるのがおもしろい。
かたちの無いものに、かたちを与えるのが楽しい。
他者の頭の中の、そのひとの人生の断片を材料にして、
ぼくの言葉にイメージが与えられるのが奇妙。
ぼくはこういうイメージで言ってるのだけど、
あなたはそんなふうにイメージするのですね、
というのがかなり好きです。
意味が通るか通らないか、
文法に則しているか則していないか、
そもそもその言葉を知っているか知らないか、
ぎりぎりの文章を書いてみて、
読んだひとに伝わるか……という、
試みをよくやります。
そもそも、そんなわかりにくい
表現を相手がわざわざ咀嚼してくれる前提っていうのが、
かなりエゴですが。
あとはあれです。
書くことの楽しさは。
日常にファニーさを見つけることです。
なんでもないことを、たのしく表現できるなら、
その日々は、たのしい。
しんどいことも、笑い話にできるなら、
そんなに悪くもないんじゃないかと思える。
しんどい話をしんどいこととして書いてしまうと、
それはしんどいことだったんだ、と確定してしまう。
たいていのことは、
いや、ほとんどすべてのことは、
与太とこじつけの限りを尽くせば、
笑える。
無理にそうしないといけない日々を送っている
というわけでは全然ないけど、
あれです、
うまい食パンなら、
焼くだけより、バターを塗りたい。
はちみつもかけたい的な。
その方がおいしいし。
いや、焼いただけor焼かずにそのままでイケる派のひとは
まあ、よいのですが。
ちなみに今回の投稿は単なる随想です。
だらだらつづくよ!
書くことの楽しさは、
もっとシンプルな部分でもあり、
こどもが画用紙に思うままに絵をかくようなあれです。
単に、表現が楽しい。
表現って楽しいですよ。
頭の中身を外に出して眺める。
そして、それが、残る。
表現したそのときの感情が風化したあとも、
残る。
そのときの感情が風化したあとでも、
それを見ることで、また蘇るものがある。
または、自分をまるで他者をみるように
みることができる。
過去の自分に会いにいける。
ぼくは日記を書く習慣があったので、
日記を読み返せば会える。
これは比喩ではなく、ほんとうに、会える。
当時の自分がどんな感情を抱いていたかまで、
わかる。
干渉することはできないけれど。
ただ、初恋のひとに人生初告白して玉砕したときの
日記は未だにちょっと読めません。
そのときの、ハートが砕けたときの残響で
脳内がぐわんぐわんなってる感じを
長大な文章に書き連ねたので、
たぶん読むと、
その感じをダウンロードしてしまう。
たえられるかな。
あえて、読むのもおもしろいかな。
でも、今思うと、
その思い出はかなりこっ恥ずかしく、
かなりつらかったのだけど、
玉砕直後、ふだんあんまり喋ったことない
クラスメイトに延々なにかを喋りつづけないと
消えてしまいそうなほどだったけど、
それでも、文章として日記にしたためることが
できたのは、又、そうしたのは、何故だろうか。
たぶん向き合わないと先に進めない。
と思ったのだろう。
というわけではなく、きっと、
頭の外に出してしまいたかったのだろう。
と、いうように、
しにたくなるような気分でも、
書くことでなんとかしなずに済みます。
なんかすごい後ろ向きな感じになってますが、
文章を書くってすごいぞ。
と、そういうことです。
遡ればカワイイ
ファンシー鉛筆と鉛筆キャップ。
最近、カワイイものを選びがちです。
そりゃあカワイイにこしたことないのですが、以前はこんなに欲して居たか。
クールなもの、モダンなもの、サイケデリックなものが寧ろ好きだった気がするけれど。
歳をとったから?
疲れているから?
父性本能のなんか?
いや、素直になっただけと言えばそうかも知れぬ。
幼少期は、カワイイものを肌身離さず持っていたし。
あるいは、カワイイものが好きなひとと一緒にいがちだからかも知れない。
影響うけやすいやつです。ぼくは。
しかし、鉛筆、である。
意匠はかわいいが、鉛筆。
実用の道具。
鉛筆は良いのです。
字が少しやわらかい感じになるし、書き味もやさしい。
間違えても良いよ……という、デリート可な性質も、現代社会のシャープネスに苛まれるソウルに、そっと寄り添ってくれる感じがある。
削るのも楽しい。
削ると良い香りがするのだ。嗅いでみられたい。
短くなるのも良い。
その身を紙への描画、筆記に費やした歴史の体現!
鉛筆の話か。否。
カワイイは好きかい、という話だ。
カワイイかそうでないかなら、カワイイほうが良いにエンター・ザ・合点!
それはルーツ。
我々も昔は、我々自身がカワイイ存在だった。
なので、つまり、あるいはそれは、郷愁にも似た切ない思い出を辿る秋のなんかかも知れません。
風邪などに気をつけてね!
お昼寝スタイル
のんびりには、技術がいる。
なんか休日のたびに、
今日は何して楽しんでやろうか!!
と意気込んで、
けっきょく意気込みに見合うレベルの
のんびりが出来なくて、
むぅ…こんなはずでは……
と奥歯を噛みしめる。
のんびりすることに対して
雑念があるのだきっと。
のんびりしてる間に、
他にもっとやるべきことがあるんじゃないか、とか、
この間にライバルは先をゆくぜ、とか、
この忙しない世の中でこんなに
のんびり出来てるなんて
もしかしてぼくには
存在意義が無いのでは! とか。
だからこそ、
フツウに自然に休日を
のんびり好きに過ごすひとすげぇ!
と思う。
ぼくの憧れはお昼寝なのですが、
まあそんなん、簡単に出来るのですが、
ちょこちょこ失敗します。
休日の、
「さあ余暇だぞ。なんかやれ」
という加圧が、
お昼寝を忘れさせ気がついたら夜です。
お昼寝は、
のんびり道の最初に覚える技にして
極意でもある、
なんか、正拳突きみたいなもんだ
というのは共通認識とは思いますが、
それが自然に出来る存在には、
ワンランク上さを感じます。
良いお昼寝おこなうためには。
むかしけっこう真剣に考えたんですが、
一日にこれだけのことをやる、
というタスクスケジュールを
決めたらいいんじゃないか。
もし予定していた時間より
早めに前半のタスクが片付いたら、
残りを無理やり前倒しにせず、
余った時間でお昼寝する……と。
もちろん休日のお話なので、
ここでいうタスクは、
家事をするとか友だちと遊ぶとか
ブログを書くとかだ。
しかしぼくはこの方法では
上手くお昼寝できなかった。
自分で勝手に決めたことなので、
そのときの気分で
簡単にスケジュール無視しちゃう
ということが頻発したのだ。
つまり、自分を律する
厳しい目が必要なのだ。
お昼寝とはストイックな競技である。
休日じゃなければ、
お昼寝を取り入れられてるのにな。
仕事のお昼休みに
仮眠するのが日課なので。
しこたま休息とることに
罪悪感ないものな。仕事のある日は。
罪悪感てなんだ。なんの罪か。
でも、同じように、
のんびりに罪悪感を感じるひとは
多いのでは。
あんがい、
幸せの形はここにあるのではないか。
想像してみてほしい。
なんという、
昼下がりの公園の木陰で
親子そろって昼寝する様の
なぐりつけんばかりの朗らかさか!
楽器とかあたらしいなんかを
習熟したかったけど、
よし、お昼寝を身につけるぞ!
レッツ・おやすみなさいだ!!
おやすみなさい!!!