そのストリームは辛丹波

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いや、あの、「辛丹波」という酒への、畏怖。
丹波って清酒があってですね、すげえなあという、そういう絵ですね。
絵ってか、落書きか。まあ。
うちのカレンダーは去年から画用紙カレンダーを採用している。
下半分がスケジュールとか書き込めるカレンダー。上半分の、フツウは、世界の絶景とかネコちゃんとかが入る部分が無地になっており、好きになんか書ける。あるいは、描ける。
ぼくと妻は、なんか印象的な出来事があったら、えんぴつで絵を描くようにしてる。
ただまあ、去年一年間このカレンダー使ってみたけど、途中ちょっとめんどくさくなったりもする。よほどのことが無いと、描き込まなくなってくる。
よほど。よほどとは何か。冠婚葬祭か、泊まりがけで旅行とか行くことか、奮発して高級ディナー食うことか、道ばたでネコをもふもふ出来ることか。よほどとは何か。
それは人それぞれである。当たり前のことを言っているが、人それぞれである。
いや、このように文章をわざわざ書くこともよほどっちゃよほどですけど、こう、日々目につくとこに掲示せしカレンダーに描き表すほどの事象ってなると、我が家としてはけっこうな「よほど」なのであるが、辛丹波という酒への畏怖が、まあ、そう。

 

いや、ほら、お正月である。あっ、あけましておめでとうございます。いや、いいんですけど、まあ、謹賀っちゃ謹賀なんですけど、それはまあよくて、あの、妻の実家に顔を出す。【妻の実家に顔を出す】をおこなう。それがお正月。
それがお正月なので【妻の実家に顔を出す】を、おこなったのですけど、中心には辛丹波があった。
清酒である。由来や来歴は知らない。しかし酒豪であらせられるお義父さまが愛飲する逸品である。パック酒なんですけどね、いや、瓶でもあるみたいですが、お義父さま曰く、酒屋にいけば大体手に入るが飲みやすくて旨い良酒である、と。
たしかに、飲みやすい。主張は強くなく、ほのかな甘みは感じられ、妻の実家謹製のおせちを引き立てる。
いや、それはいいんですけどね、おせちめっちゃすすんで、腹一杯食べましたけど、それはいいんですけど、こう、食卓の中心にそれはあった。辛丹波があった。
妻の実家に顔を出して、食卓をかこみ、ぼくと妻と義父と義母と義兄と義祖母が、いる。たまーに老ネコ様も声だけ参加する。ぼくはちょっと緊張している。仲がどうとかではない。【人見知り】スキルを安定して発動しているだけだ。
しかしお義父さまがよい塩梅で辛丹波を注いでくださる。次第に緊張がゆるむ。ほがらかな気分になってくる。妻の家族の会話のメイルシュトレエムに、ぼくも飛び込み潮流の一部となる。
お正月。お正月が、そこには、ある。
ぼくと、妻の家族、おせちに会話に笑い声、そして辛丹波が、そこにある。
酔ったぁー。帰ってめっちゃ寝た。あんがい翌朝のこらなかった。
あとを濁さない、優秀、辛丹波

 

今年もよろしくお願いします。

焼いたサバとビョーク

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サバの弁当だ。
サバの弁当のときがある。
あの、仕事で、いつも弁当を持って行ってる。
妻が作ってくれる有難い糧食だ。
その弁当の具材に焼きサバが入ってることがある。
焼き魚だ。
焼き魚は強い。
そもそも魚は強い。
生で、刺身で食べた時のあの、淡白なようで、繊細に漂う甘み混じりの風味と、滑らかな食感はどうだ。
生で美味いってどういうことだ。
生で美味いもの全般に言えることだが、コラッ、どういうことだ。
美味しいままで泳いでるのか。
生きて、大海を泳いでる状態で、すでに美味しいのか。
となると、お刺身を食すとき、我々は食卓にありながら、口中の空間のみ大海に同期してることになるのか。
すげえ。
知らんけど。
すげえ。

焼き魚である。
生でも強い魚を、焼く。
焼くと美味い。
というシステムがあり、それを、魚でおこなう。
生で、強い、魚を、焼く。
さらに強い。
ベジータの見立ては甘かった。
もっとずっと強かった。
焼く。
それによる戦闘力の上昇。
暴威。
ヤバイ。

しかし魚はこの世に一種類では、無い。
生のままでも美味く、焼いたらもっと美味い魚は、一種類では、無い。
この世には、サバが、いる。
サバだ。
サバという。
サバと呼ばれる魚がいる。
サバを、焼くんだ。
よく熱したフライパンで。
網ではダメだ。
コンロがダメになる。
強すぎて。
強固なフライパン——鉄板でなくては受け止めきれない。
よく熱したフライパンで、サバを、焼く。
じゅうううう、と微細な油烈音がこだまする。
脂だ。
生きている魚は脂を持っている。
生きているから。
脂は魅惑の蜜だ。
生きるために必要だから。
その、脂を、サバは豊富に保有している。
しかも良質だ。
焼くと、脂が、じゅうううう、って、なる。
美味い脂が焼かれて跳ねる。
身に火が通り、旨味が生成される。
コンボが成立し、さらに脂がフライパン上に供給される。
じゅううううって、なる。
コンボが持続する。
着地点が見えない。
火と、脂と、魚体の、ダンス。
ダンスは、ミニマルな要素のみで構成された身体表現だが、優れたダンスには力場があり、そこに、魔術的エフェクトを発現する。
それは、焼き目。
パリッて感じになる。
魅惑のダンスは、存在しなかったはずのドレス(焼き目)をサバに纏わせるに至る。
焼き目って、良いよね。
焼けたら、弁当箱で待ち構えていたごはんに、乗せる。
NO・SE・RU。
サバをだ。
その意味。
焼き目を纏い脂あふるるサバが、ごはんの、上に、NO・RU。
「完全」である。
「完全」が、そこにあった。

 

……ありがとう。
ありがとう。
何に感謝しているのかわからない。
しかし、ただ、ありがとう、と思う。
サバは、すごいやつだ。
いま、ビョークを聴きながらこの文章を書いている。
映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」とかのビョークだ。
アイスランドのディーヴァ。
極めて実験的で神秘的な、地球のあらゆる生命の息吹を音楽で表現せしめんとする、レイキャヴィクの唄う霊獣。
ビョークの音楽を聴きながら、焼きサバを思う。
神秘だとわかる。
地球の奇跡のひとつだとわかる。
サバよ。
焼いたサバよ。
ありがとう。
ごちそうさま。

映画「パターソン」と、旅の思い出

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あのー、広島の尾道に、旧友が営む喫茶店がある。こないだ、秋、ひとり旅がてら訪ねた。
店主である友人は、いまの場所にたどり着くまで、いろんな場所で料理家をやったり執筆をしたりしていた。
で、友人は喫茶店をやりながら、今も、思い出したように散文詩のような文章(なかはらあきこ | 冬の日記)や、詩情にあふれた写真(ヘッダ画像がそれ)をアップロードしたりしていてですね、それが、すげー良い。語彙がしんでますが、彼女の文章や写真をみてそう思った、なんか良い。なんだろうこれは。

 

友人の淹れるコーヒーを飲んだとき、あと、彼女としゃべっているときも同じような感情を覚えた。
みている世界とか価値観が、少しこちらに流れ込んでくる感じ。詩人から観た世界が垣間見える。

 

この場合の詩情って、なんか、なんでしょうね、全身の感覚で感じるすべての情報や体験、そこから生まれる思考や感情みたいな膨大な要素を、作者のセンスにより言葉を用いて必要な部分だけを抽出した感じっていうか。
良い抽出がなされた表現は、気持ちいい。
自分のいきるこの世界を、誰かが詩のように凝縮されたセンテンスに巻き取って、無辺の空間に発射してくれて気持ちいい。

 

あのー、本題なんですけど、まあ、『パターソン』という映画を観ました。
お望月さんのこちらのノート(創作を続ける者に寄り添う映画「パターソン」(2016年の映画)|お望月さん|note)を読んで知り、拝見しました。

 

すげー良かった。語彙がしんでますが、なんか、すごい良かった。
で、上記のですね、尾道にいったときのこと等を思い出したんですけど。
で、映画のあらすじはこうだッッ!!!

 

 ニュージャージー州パターソンにすむバス運転手のパターソン。彼の1日は朝、隣に眠る妻ローラにキスして始まる。いつものように仕事に向かい、乗務をこなす中で、心に芽生える詩を秘密のノートに書きとめていく。帰宅して妻と夕食を取り、愛犬マーヴィンと夜の散歩。バーへ立ち寄り、1杯だけ飲んで帰宅しローラの隣で眠りにつく。そんな一見変わりのない毎日。パターソンの日々を、ユニークな人々との交流と、思いがけない出会いと共に描く、ユーモアと優しさに溢れた7日間の物語。

 

(公式サイトより引用)

 

えー、まあ、非常に穏やかな映画なんですけど、詩を愛するバス運転手パターソンさんの日常を描いた映画なんですけど、映画そのものが詩的で、穏やかな展開と映像ながら、強力にトリップした。いや、まあ本当に穏やかなんですけど、気持ち良いのだ。
主人公であるパターソンさんの感覚や価値観がみているうちにインストールされる。詩を愛する、日々を詩的にみつめる男の感性が入ってくる。

 

また、日々の中で感じたことをノートに手書きで綴るっていいよな、とか、夜いぬの散歩がてらいきつけのBARで一杯だけ飲んで帰るとかいいよな、とか思った。
ささやかな日々の中で、自分が「なんか良い」と思ったものごと対して丁寧な感じがする。丁寧だし、楽しそう。
これはすごいことだと思う。日々を愛することが出来ること、すごい。
ぼくは、まあ、別にしんどい毎日をすごしてるってわけでは全然ないけど、なんやかんや整理できてない些事により、やりたいことに時間が割けなかったり、飲み屋やカフェでひと心地つく時間が作れなかったりすること割とある。

 

詩としてみるのだ、世の中を。生活を。
詩情をもって睥睨するのだ。
情報を、生活を、タスクを、詩として抽出するのだ。
と思う。

 

で、映画を観た後、すこし、それが出来る。そういう感覚で事象を認識できる。すこし。

 

パターソンさんが教えてくれた。

 

そうしてみると、自分の日々に「詩」をみつけることが出来てくる。すこし。
そしたら、ちょっと、楽しい。


で、なんか、久々に地元の旧友と会おうかな。などと思ったのだった。

うれしいゴリラとほがらか創造者

先日、《御バカの天才大集合3》なる、99の豪傑の一年分の業を圧縮・炸裂させ、わーい(^O^)ってなるイベントが開催され、遊びに行ってきました。

会場のどこに行っても出店・出演者さんが居て、なんかやってて楽しい! で、まあ、出店してた絵描きさんに、この絵を描いて貰いました。わーい!

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ささっと描いたようでありつつ、これ以上足しても引いてもなんか違うような絶妙なバランスだと思う。どこまで描いて作品としてひとつ完成かっていう【止め】のセンスすげーと思いました。リスペクト。

 

あの、描き手は、"かまだまみこ"さんと云う。
一度、出張コーヒー屋としてイベントでご一緒させてもらったことで知り合った方なんですが、なんでしょうね、あの、めっちゃ絵、描く。
インスタグラムにたくさん絵をアップロードされてますが、プロフィールに『1、2分で描くドローイングがメイン』とあるように、クロッキーでがしがしドローイングなさる。

 

かまだまみこ Mamiko Kamada (@63tasu88) • Instagram photos and videos

 

たぶん毎日描いていらして、個展のときは、一日数十枚とか描いてる(もっとか?)らしい。なんか、電車のってるときとかでも描いたりするらしいです。
そういう感じ、すごい憧れる。行住坐臥○○してる、っての。すごい抱く、憧憬。
しかもそれを、(傍目には)無理なく自然におこなっているように見える。
出来ませんよ、なかなか。すごい。
いや、もちろん、研鑽の上にこそ成立した状態なのだと思いますが、ご本人はすごい朗らかな方だ。すごい朗らか。
で、まあ、かまだまみこさんすげえという話ですが、この、「1,2分でドローイング」っていうのに強く惹かれるものがある。
あの、手段としてステキだなーと。

なんか、ぼくは、スマホでよく写真とる。なんでも撮る。「なんかいいな」と思ったらリクツを考える前に撮る。「なんかいいな」と思ったものを集めて手元に置いときたいみたいな感情だと思う。
写真、見たまま残せるし手軽だし、すごく良い。しかし、ツールとして、ぼくは、「紙とペン」に強いワクワクを覚える。
手描きは、解像度/情報量ともに無限だと思う。ざっくり言うと【手描きのあじわい】という追加効果が、精緻な絵画でも簡潔な素描でも付与されるため、チートだ。まあ、単純に、文具が好きなので、使うチャンスを探してるだけっちゃだけですが。
あの、そう、探し求めている。スマホで写真を撮るようにクイックに「なんかいいな」を保存でき、なおかつ、好きでつい買っちゃうけどあんまし用途が見つからないペンやノートを活かす道を。
それを、かまだまみこさんのドローイングに見つけた。1、2分で対象の性質を活写せしめる技巧は、不断の研鑽のたまものだとは思いますが、憧れるのはタダだ。うまい素描は勝手に脳でイメージを補完するから、すくない描線ってむしろ皆だいすき【想像の余地】があり写真以上に記憶や感情をキックする。ような気がする。気がするし、こないだ買ったロルバーンを生かせる。

 

なんでノート買ってまうんやろなマジで - #うそめがね日記

 

かの人は、クロッキーで描くけど、そこはボールペンでもえんぴつでも良いと思う。えんぴつ。えんぴつも好きなんですよね。あの、女子の書くえんぴつの文字、筆記具別カワイイ手書き文字ランキングで1位じゃないですか? いやまあ、身近で見る機会あんま無いけど。あー、えんぴつの話は今は良い。

ともかく、ステキなめがねゴリラの絵を描いてもらえたことと、憧憬を覚える技術とセンスを持つ人がいるということ、その人がとても楽しそうに描く人であるということが、嬉しい。

そして、ヘリクツはいいからノートとか買ったら使えよな! おれ!

 

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#雑記 #日記 #随想 #うそめがね日記 #1500文字プラクティス #御バカの天才大集合3 #文具 #ノート #ドローイング #クロッキー #ゴリラ #めがね #メガネ #えんぴつ #手描き #素描

なんでノート買ってまうんやろなマジで

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 なんでノート買ってまうんやろな……。
 あの、なんでノートってつい買ってまうんやろうな……ってときが、わりとある。
 ノート。前も買ったけど、また買った。前のを使い切ったわけじゃない。別の用途で使おうって用事があるわけじゃない。手書きでメモとか図案を書いたりする習慣もあんまりない。でも、また、買った。
 まあ、文具は好きで、休みの日、やることなかったらだいたい文具屋いってる。文具屋にいくつもりなくても、いった先で文具屋の気配感じたら足を向ける。結果、文具屋にいく。
 文具っていろいろある。いろいろあるけど、見ちゃうのはやっぱりノートかなあ。とくにA6やB6サイズのん。
 何でだろう、何で好きなんだろう。わからん。まあ、使うのは使う。頻繁じゃないけど使う。一応持ち歩いてるから、なんかの打ち合わせのときとか、使う。スマホにメモるのが相手から見たらゲームしてるのかメモしてるのか所作にあんまり違いが無いから、なんか、手書きの方にしてる。そのくらい。
 だから、いま持ってるノートで事足りてるし、ページ全然あまってる。でも、また買っちゃう。ぜんぜん合理的じゃない。使い切ったら次が要るけど、それ、いつよ!? という感じだ。でも、まう。つい、買ってしまう。
 なんでしょうね、消耗品というには消費ペースは遅い。小説とかは買ってなかなか読まないとかあるけど、ノートはどのノートも中身は白紙だ。でも、買う。

 あの、先日買ったノート、写真のノートね、「ロルバーン」という銘のノート。ちょっと大きめの文具屋いったらだいたい見かけるリングノート。これを、良く、買う。今回買ったのは、ドイツのデザインユニット「レッドフライズ」が手がけた図案を表紙にしたモデル。

 

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https://shop.delfonics.com/fs/delfonics/cat752/600250

 

 カワイイ。可愛くてしんどい。結局カワイイ。そんなん、買ってしまう。
 あの、ロルバーン、機能性もね、いいんですよ。リングノートなので任意のページを開いたままにしておける。表紙と裏表紙はボール紙めいた頑健さで安定感ある。巻末に透明のポケットが複数ついてる。全ページにミシン目がついてて、必要なら切り離せる。ミシン目は見た目にはわからないくらい細かな細工で、意図して切り離そうとしない限り存在が気にならないってのも良い。頑丈。しかも、カワイイ。
 便利だ。優秀。いまは完全ペーパーレスの会社で働いてるから仕事では出番ないですが、カフェのバイトしてたころは上記の特性がハマって、能率的なメモをおこなえていたし、今たまにやってる出張コーヒー屋のときも重宝してる。
 なんだ、使うじゃないか。用途あるじゃないか。いやいやいや、たまのことなんですよ。それは。一冊使い切るのに数年かかってますからね。でもなー、まうなー。まうまう。まうんですわ。

 

 たぶん、あれです。きっと。
 ノートに、白紙のノートに、期待とか希望とか憧れを投影してるのじゃないか。なりたい自分とか、こうありたい、とか、こういうことしたい、とか、自分はこういうことがきっと出来る、とかそういう。
 あのー、クルマ欲しい、ってときがあったとして、きっと、そのとき考えることって、それに乗ってあそこに行きたい! とか、あの子を乗せたらきっと楽しいぞ! とか、あの道を走ったらぜったい気持ちいいぞ! とか、そういう、未来と未来の自分を考える。そんなようなあれ。
 とか言語化すると、そういう感じだけど、いいノートを文具屋で見かけたときのトキメキはリクツじゃない。無意識に、本能的に、いつでもどこでも【書くこと】をしたいのだ。そういうことなんだ。嬉しい。それは嬉しいことだ。
 おとなになると、「自分が好きなこと」と「自分が好きだと思い込んでること」の区別がつかなくなってくる。素直なエモーションでいたいのに、周囲の影響とか時間の制約とか積み重なる知識や経験とか、纏うノイズが多すぎる。でも、少なくとも、どうやらノートは本当に好きみたいだ。それは書く道具だから、好きみたいだ。それがわかることが嬉しい。書くことはちゃんと好きらしい。

 

 というヘリクツはいいから、買ったら使えよな! おれ!

我をわーい^^vってならせし者達へ

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 あー、アナタは、自分の書く文章とか創作物が好きか。
 あの、ぼくは割と好きです。自分から出てくる、なんか、思考のまろび出モン。例えば、ブログやnoteで書く文章とか。
 なんでしょうね、ハードルが低いんですかね、たぶん。ちょっと、なんか、日本語を駆使して意味のある文章を書くと、えらいね、ってなる。なかなかできませんよ。日本語を駆使して意味のある文章を書くこと。
 いや、違くて。違くないですが、えらーい^^ ですが、そうでなくて。
 えー、つまり、一応、まあ、楽しんで書いている。ノリノリで書いているのである。それは間違いない。
 ただ、なんか記事書いた直後とかは、この文章おもしろいか? とか、思う。いや、大抵、あの、思ったこと思ったまま思った順序で並べただけっちゃだけの雑文ですからね。これを世に出す意味とは……? 読む人がいたとして、その人の黄金ともいえる時間という資源を、ぼくの文章を読むという行為によって、なんか、切れた輪ゴムみたいな価値におとしめてやいないか? とか思う。思ってるかな。たまに思います。
 いや、わりと書いてるとき楽しかったし、そこそこおもしろいんでは? と思って投稿前に読み返すんですけど、ヌゥー……と、なる。深く考えると、その先に待っているのは『無』なので、深く考えるのはやめるんですけども。
 でも、あれです、昔から「書いたら投稿する」って決めてるので、どんなに、排水溝のぬめりみたいな文章でも、書いたら投稿するって決めてるので、書いたら投稿はします。
 んで、翌日くらいに、読み返したら「おっ、この人けっこう良い文章かくね!」ってなる。あれだ。自賛・オブ・自画!

 

 あれかな、時間置くと、客観的に読めて、ただの自分とセンス近い人の書いた文章ってことになり、読みやすいから、おもしろく感じる。ということかな。実際におもしろいかどうかってより、そういうカラクリなんでしょうね。あの、寝てるとき見る夢、自分だけがおもしろいみたいな感じ。人に話すと立ち強【ふーん…】を喰らう感じ。

 

 というふうには、思っていなくてですね、おもしろいと思っている。自分の書くやつ、おもしろいと思っている。他人が読んでもおもしろいんじゃないだろうか、と思っている。
 ハードルが低いのか。低いです。自分大好きか。フツーだ。
 でもフツーのやつが、ポメラを駆使し、日本語を駆使して意味のある文章を書き、インターネッツを駆使してアップロードして、どこかの愛すべき誰かの時間と脳のリソースを駆使させるのであれば、それは、立ち強【えらいね】だ。

 

 そうなのだ。自分だけで良いと思ってるだけじゃ満足できない。愛すべき誰か、読んでくれる誰かの存在は絶対に、いる。
 文章書いて投稿ってのは、たぶん15,6年くらい前からやってる。最初は高校生のときだった。
 ホームページビルダーでテキストサイト作って、今みたいな雑文アップロードしてた。続けてると「おもしろかったよ」って掲示板に書いてくれる人がいて、むちゃんこ嬉しくて、嬉しすぎて「わーい!生きる」ってなったと思う。
 でも「わーい!生きる」って高校生のときはなったんですけど、えらいもんで、人っていろいろ経験するなかで、磨耗するものがあるのも確かで、なにかこう、素直に喜ぶってことが出来なくなってくるもので、それが投稿した記事にスターとかいいねをつけてくれる人がいたとしても、嬉しいっちゃ嬉しいけど、昔ほどじゃなかったりするかっていうとそんなことは全然なくそれはめっちゃ嬉しい。むちゃんこである。依然としてむちゃんこ。

 

 だから読んでくれてありがとう~^^v

褒め、まじ、だいじ

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 大人になると、あんまし貰えなくなるものがある。もらえる人もいるんだろうけど、当たり前ではなくなる。自然にもらえることはあんまりない。
 しかし、欲しい。欲しいってか、要る。要する。喉渇いたら水を飲むように。眠たくなったら眠るように。
 それは“褒め”。褒められること。


 大人だって、いやむしろ自立してる大人ほど、要る。
 だって、あの、仕事とか大変じゃあないですか。まあ、経験と慣れで、大変じゃなくなる部分もありますけど、誰でも出来ることをやってるんじゃないはず。でも、わりと当たり前に出来るようになるので、当たり前に出来てるように見えますが、でも毎日「今日こそ急に当たり前に出来なくなるんじゃないか」って少しだけ思いながら業務開始してる。
 当たり前じゃない。褒めて! ってなる。

 

 あの、職場で褒められた。つまり、褒められて嬉しかったってだけの話なんですけど、嬉しいですよね、褒められると。おいしい。甘露。
 いや、もともと、こう、良い職場で、褒めて伸ばす社風なんですけど、仕事たてこんでると、そういう空気は薄れる。褒めを供給する機会があったとしても新人さんに回りますよね。いいんですけどね、それは、しかし、まあ、つまりぼくは渇いていた。
 体調にも影響でる。朝が起きられない、出勤の足取りが重い、眠りが浅い、とか。
 まあ、因果関係あるか不明だ! でも、最近、そんな感じだった。

 

 で、先日、仕事中に、急に呼び出された。やましいことそんない無いですが、急だったので完全にやらかしたと思ったけど、与えられたのは、渇望していた“褒め”だった。わーい。
 なんか、褒められた。なんか、ってのは、本当になんかで、あの、あるんですって、そういうの。こう、業績みたいな会社への直接的な貢献度以外の「なんか、貴方、いいね」っていうのを評価する仕組みが。
 勤務態度が良いとか欠勤しないとか挨拶ちゃんとするとか含め、なんか良い感じかつ真摯に仕事してる人、だれか一人ピックアップする時期だったらしく、それに選ばれた。へー、ってなった。
 選定に携わった複数人から真っ先にぼくの名前が出たらしい。へー。
 寝耳に水すぎて、へー、しか出ぬ。しかし、嬉しみの「へー」だ。
 ぼくのやってる当たり前はちゃんと当たり前じゃないって思ってもらえていた、ってことだ。嬉しいことだ。大人だけど、えへへ、ってなった。


 いやーありがたいですよ、日々フツーに出勤してフツーに働いてることを、ちゃんとピックアップして評価してくれるの。
 しゅー、ってなった。モチベーションが上がる音が聞こえた。それは大げさだ。でも、最近慢性的にあった、気だるさがだいぶん緩和した。褒め、まじ、だいじ。

 

 あの、これを書いてるのは、夕方、オフィス街の地下にあるドトールでして、窓辺の席から、地下街を帰宅するOLやサラリーマンが歩いている。大阪の中心なので、右からも左からも無限に歩いている。同じ人がループしてるんじゃないの、ってくらい人の往来は途切れない。
 日々はたらく人たちに、“褒め”は行き渡っているのだろうか。
 やー、なんか、大きなお世話だろうけれど、あれだ、ぼくは放っていきたい。できるだけ放っていってる。うまく言葉に出来なくても「全然うまく言えないんですけど、なんかいいっすね」って言ってる。
 言われたら嬉しいもんね。報われる。ぼくは、そう。
 言われたくない人もいるのかな。そっとしといて欲しい人とか。まあ、「大きなお世話だ!」って怒られたら、さらにもう一回くらい言ってそれでも怒られてから考えます。